死を見つめることは幸せなこと。豊かさを考える

高野山真言宗 別格本山 八事山 興正寺 西部法照さん

名古屋市昭和区にある真言宗の寺院、八事山興正寺。創建は貞亭5年(1688)で、弘法大師の五鈷杵を授かった天瑞圓照和尚に尾張藩二代目藩主・徳川光友公が帰依され開山されました。以来、尾張徳川家の祈願所としてその名を知られるようになります。 真言密教の教学・修行の場として、また、人々の信仰の場とされてきました。

今回は八事山興正寺のご住職、西部法照さんにお話を伺いました。

    

整いすぎない「豊かさ」

岐阜市で生まれました。終戦後は辺り一面焼け野原で、小学校も古木で作られたバラック小屋でしたし、食べるものがないので栄養失調の子供たちも多かったです。たまに出てくる給食は脱脂粉乳とコッペパンでした。とにかく物のない時代でしたが、そこから現在まで、歴史的に変化の多い時代を過ごしてきたと思います。戦後の1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝されました。それは文化的な生活への憧れであり、大人たちはどうにか手に入れようとしゃかりきに働きました。
それから高度成長期の1960年代半ば、人々の憧れは3C(クーラー・カラーテレビ・カー)の時代へ。小学校の先生から、アメリカでは一般家庭のお父さんが自分の車を運転して出勤する生活をしていると話をききました。当時の岐阜で車を持っているのは企業の社長さんくらいで、自分の車で出勤するなんて、そんなおとぎ話ようなの世界があるはずがないと本気で思っていました。
それから10年、あっというまにおとぎ話の世界が現実となり、私は18歳で免許を取り、自分で運転するようになりました。めまぐるしい時代でした。

憧れの「モノ」を手に入れて文化的な生活をする、それが幸せなんだと思っていました。

しかし自分だけの満足ではだめだと気づきます。相手の幸せも考え、双方が正しく受け止めることが大切です。
「整っている」や「手厚い」は本当の豊かさではありません。手段としての利便性を考えるのは大切ですが、ありのままの満足を知ることが豊かさにつながると思います。

     

     

地域の中の興正寺

地域の中で人間の日常生活がどれだけ完結しているかで地域の幸福度が図れるのではないでしょうか。
今後人口減少していく中、広域化していくことだけが満足とは限りません。地域でどれだけ充実した人生を過ごせるかどうかが大切だと思います。成熟した社会になれば地域の完結度が高まる、それが一つの指標だと思います。地域の特性を残しながら、その中にお寺や医療などが組み込まれている。そのネットワークをどのように機能させていけるかが大切です。

基本的にお寺は閉鎖的ではいけないと思います。地域との結びつきや社会への還元を考えなければなりません。また、お寺を地域文化の発信地・中継地として地域住民の方々に活用していただきたいと思います。

よりお寺を身近に感じていただくため、地域に向けてお話をする機会もいただきます。その際にお相手から「あなたのお話はありがたくないからいい」と言われました。

ありがたい話をすると、聞き手は「ありがとうございます、ごもっともです!」としか答えようがない。でも少し違った角度からお話させていただくと、ん?と考える。そこがいいと言われました。私自身なるべく、「共に考える」ということを大切にしています。難しいですが、そんな心がけでおります。

八事山興正寺には三百余年変わらない、八事の森があります。新緑の香り、美しい花の香り、鳥のさえずり、水の輝き…。そこに、線香の薫り、読経の声、そこから馳せる人々の想いが ここにはあります。この自然の恩恵を私たちは守らなければなりません。人間が自然を管理することは出来ないが、自然を侵さないように「手入れ」するのが私たちの役割です。

宗教的な神秘性が地域に向けてどれだけ貢献できるか、これは課題です。しかしながら、これからは若い世代の手に委ねていきたいと思います。私はもう70代なので(笑)

      

     

仏教から視る死生観

私たちは生まれたときから死を背負っています。「死はあるもの」と真正面から受け止めなければなりません。
死なずに済むということではなく、人生の生と死の苦しみから逃れるためにも、死というものを自分で自覚する。死を避けようとするのは間違いで、死があるからこそありがたい、というのが仏教でいう「諸行無常」。
無常とは変化して進歩すること。命の続きは先祖があります。死んで終わりではなく、目に見えない世界をどのように受け止めるか。目に見えるもの・目に見えないものが世界や宇宙にもつながります。これまで見えなかったものの世界に入っていくという考え方です。

死は決して悲しいことではなく、生きることは死ぬことと同じ延長線上にあります。

死を見つめることは幸せなことなんですよ。

人間は、自分が思ったことが実現していきます。思わないことは実現しません。したがって、どうせなら楽しいことを考えていくべきです。科学で証明できることではありませんが、一杯のお茶もおいしいと思えばおいしくなるし、まずいと思えばまずくなるんです。

死もそう。それが最後だと受け止めてしまえばそれで終わってしまう。死と生は続いているんだという気持ちです。怖いと思うから怖いんです。終点は永遠に続いていく、という人生観のほうがいいのではないかと思います。

自分の人生を豊かにしていくために、楽しいと感じられるものを見つけましょう。いつも自分の気持ちはどう感じているか、を出発点にして考えるといいですね。

変化がより速く、複雑さの増す現代において、他人と比較せず、自身で受け止め・観じ、自分の「好き」を見つけることが大切だと思います。

高野山真言宗 別格本山 八事山 興正寺
愛知県名古屋市昭和区八事本町78
052-832-2801
https://www.koushoji.or.jp/

  

    

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